Technique-600THz

前夜すべて

10.19

どうして人はオーディション系番組を自然に受け入れているのだろう。試される人間や、シリアスなやり取りを垣間見るのは自分だって嫌いではないが、演者の感情を消費するための装置のようなものはグロテスクが過ぎる。

ちょっと曲やメッセージのスタイルが好きだったアーティストがそれ系のプロデュースを始めたときは、正気かよ、と思った。尤もらしい(全くそうではないのだが)ゴテついた台詞で、将来の不安定な、それゆえ可能性にすがるしかない立場の弱い青年を煽動したり、その命運を自分が握っておきながら、翻弄された青年に向けてそれを正当化する。気色が悪すぎる。まったく平等でない世界で必然を語ったり、偶然すら必然であるとしてみたり、悪辣にもほどがある。世界の解釈は上から偉そうに押し付けるものではないだろ。しかも決まって、並みのことを言うわけではなく、飾った台詞なのが気色悪さを際立たせる。演出?取れ高?そんなものに迎合するならば、折角着飾ったその台詞の価値は無なのでは。

わざと舞台裏を見せてやろうというのは、表で完璧に成り立つものの裏側を見ることが人間の欲望のひとつだ、というところから来ているのだろうか。とはいえ、とりわけ中でも、涙の滲んだ目や声を欲しているんだろう。というのはなぜか。

育てることに比べて、選んだり評価するのはよっぽど楽だ。育てることには十全な責任が伴うし、逸材ではないものを形にするのがその本分であり、当然労力を要する。選ぶことにも責任があるかもしれないが、逸材を選ぶには選ぶ側の労力を必要としない。