祭り 人が多すぎる 暑いし
絶えず自分の音を聞かされる状況はかなり堪えるし、耳が精神に引っ張られすぎるようになるので、加減したい
何者かになることよりも、何者であるかということの方が何倍も芯を食っているということ。この辺の思考を漁っていたら、何になるべきかではなくどうあるべきかが問題なのではないか、という教えを久しぶりに思い出した。漢文の先生だったと思う、この言葉のからさは。
どうある、とはどう生きるか、どう過ごすか、どう選択するか。
塞ぎようのない、喉を裂いて溢れそうな感情、(そう、感情というものを久しぶりに認識した)これを外に出さねば自分が壊れるという状態から脱するための、細い不明確な道を欲しているのを感じる。これならゆくべき道と言えるのか?
熱も頭痛もだるさもあって精神もなけなしの気合いで繋ぎ止めているがなんてことはない。なにもまだそれから解放されるべきことを成せていないんだし。