Technique-600THz

前夜すべて

10.4

夜 追記

 

普通に喋っている時に言葉が音楽に聞こえる人っているけど本当に素敵だなと思う

 

薄いアーモンドミルクに耐えられなくて牛乳を買ってしまった。いらんケチはするものではない。食べ物って美味しい方がいいし

 

 

少し寝て3時くらいに起きて、会見を全て見た

 

 

動悸も震えも吐き気も問題に直接的に関わるあらゆる人間に比べればどうということはない(結果ゲロっちゃったけど)。前回は時間が長いのもあって少し時間を置いて見たが、今回は時間が短くて良かったと思った。おかげで今すぐ見ようと思える。

色々な悪手があったりなんかして本当にズレのある会見だと思う。ズレを正確に指摘する外野がいた方がいい。 (会見がごたつく要因となった一社一質問などは、厳しそうなら何日かに分けるか事前質問か、いかようにか対策はすべき)

 

あの人はそもそも急拵えのハリボテであり、職能としてはその立場に相応しい振る舞いや何かが備わっているわけではないので、非難して降ろせるくらいならどうぞ降ろしてください、その場所に居るべき人間ではないので、と思う。

朗々、切々と喋ることへの非難。あの人間の胡散臭い振る舞いや嘘のような信条や場の空気を読んで掴む力、「詐欺」的に見えるそれらはある程度その言動を見てきていればわかるはずだ。それらは不可避的に鍛えられたもので、それは虚構を生き、またそれを囲む非人間的な業界を生きる人格と、自分の実人格との折り合いをつけるための一種の鎧のように思える(そもそもそれらのパフォーマンスやポーズが彼らのなけなしの人格や精神を守るために発動されている可能性はないのだろうか)。そういう人間を(世間一般から見て)最も素朴な態度が求められてしまう場に出したりすることが不適だろう。

また、信条的にはあの人間が全うしたいのはファンや自分が担当する人間に対する誠実さだろうと思う(問題への誠実さは勿論あるが、それは信条というよりは道義的責任によるものだろう)。だから自然にああいう言葉が出てきてしまう。子供に絡めた発言だって、20代の頃からずっと子供向けの番組に出てきて自分に子供がいて自分が担当するのが子供だからだろうし、要するにあの人間のアイドルとして作り上げられてしまった人格が漏れ出てきてしまっている。場を弁えてなあなあに中身のない言葉を喋る/都合よく黙って静観するなんて器用な事は出来ない。「落ち着いて」という発言に関しても、会見を見ていればよくわかるが、記者同士が揉め始めてしまったことが原因であり、つまりあの人間にとっての場とは、全ての人間が極力気持ちよくいられる場のことで、怒号が飛び交う場は収める方向にやっていくしかないのだと推察する。そもそも、人格を完全に抑えて、求められる場にまったく適切で正当な振る舞いができる人間などいるのだろうか。

「良い人だと思ってた」だなんて宣って失望するなら勝手にすればいい。勝手に祀りあげたのはあなただ。いいように期待していいように失望できるのは外野の特権なのだから。

本来批判されるべき側を(オタクによって)同情されるべき側かのようにすり替えている、という見方があるが、それはやはりオタクのことを誤解した意識の表れのように感じる。あの場にあれらの人間が出ようが出なかろうが、オタクのタレント重視、事務所どうでもいい、のような心持ちはあまり何も変わらない気がする。事務所など多分どうでもいいのだ、オタクにとっては。一般大衆に対するパフォーマンスということはなくも無いだろうが、それはいわゆる経営母体側の狡知への批判として行うべきことだ。あの人間の振る舞いや言葉の綻びは確かにあるが、それをもとに矢面に立つ人格への攻撃など行う人間を、軽蔑する。

いわゆるポーズ、パフォーマンス、演技と呼び非難することへの疑問もある。ポーズのないコミュニケーションなどありえるだろうか。この、素朴で純真で偽り(演技)のない「態度」(言説ではなく)に夢見る感覚のことを考えたい。大抵の場合、態度に言説の真偽の判断が左右されるということ、また歴史的に見て諸問題を引き起こすのは常に態度や空気であるということも含めて。また、文化的に見られる、反省の態度に対する異常な執着(土下座、坊主、などに代表される)についても。

SNSでは態度に着目するばかりで、元々の問題が蔑ろにされていることに気を揉んでいる(質問の中でも内容に関するものがいくつもあったのに)。事態を矮小化しているのは、むしろ態度などに過度に注目したりする我々世間一般なのではないか。この状況に至るまでに業界、報道、司法、社会、どのような要因があるのか?また、ちゃんと被害者の方を向いているのか?正当に対応できているのか?司法を通さない限り、問題がどう扱われるかを長期的に見ていき判断するしかないのだろう。野次馬的な第三者におもちゃにされるべきではない。

 

つーかインボイスの話とか円安対応の話とか技能実習生の話とか四谷のとかどうなってんの????ちゃんと報道してる???

 

自分事にせざるを得ないのでメンタルが削られていく。共犯だと言われてもそうなんすかね、はい、と正直なるしかない。資本主義的コミュニケーションの中で何かを好きになったりするというのはそういう関係を常に含むものではないか。決して盲目的な肯定をしてはいないが、それでも他者からは色眼鏡でやっているように見えるだろう。どんなに近しい他者であろうと、人から見たら自分は等しく「村」の側の人間だろうし、人権を蔑ろにするし不手際の多い組織にいる人間が好きな、滑稽で理性的判断が出来ない人間でしかない。そう詰りたいなら好きにすればいいと思う。自分個人に関するそこの話はどうでもよくて、もう一歩踏み込んだ問題について考えたいから。ただ精神が少し削れるだけのことだ。

それでも例えば、ファンだとかが学校や職場や友人関係において、このことで酷く辱められたり非難されることがありはしないか、ということは気掛かりではある。タレントもそうだ。実際に公式コンテンツのコメント欄は地獄で、あけすけで最悪な言葉による揶揄が執拗に並んでいる。どうか見てくれるなよ、と思う。

 

話は変わるが、トーンポリシングについて、それはそうと思うことは前提として(権力の不均衡を基本構造とした定義が見られるので、その構造がない場合の自分の問題に引きつけるには誤用かもしれないが)、自分のような感情の発露に弱い人間はどうすればいいのだろう、とずっと考えていることを思い出した。自分に向けられる感情も、自分は関係がなくともその場で何か別の物事に向けられる感情も苦手だ。ただトーンポリシングの概念にあるように、こちらがその感情を抑えるように言うことには一定の良くなさがあるので、何も言わないで無言であることが多い。特に問題解決の場にあたっては、感情を満たそうとするあまり論理も不明確になるから問題が解決しないと思っている。感情を満たすことの何が悪いのか、感情こそが問題であると言われたら、それに付き合える胆力のある人間ならそうかもしれないが、自分が本当にその類が苦手で動悸も吐き気もする。そこまで追い込むことで対等だと言うのなら、本当に生きる場所がない。感情が等しくあるべきという論理がどうして成り立つんだろう。昔から、同じように感情の温度を上げて合わせろと言われることが度々ある。それに応えられなくて、感情が無さすぎて人間じゃないと言われたことがあるが、そうなのかもしれないな〜と思いながらずっと息をしている。本当に人と居たくない。

 

吐きそう死にそうと言ったって、現に死ぬわけではないから研究でもして紛らわす 自分のことを自分で収めることは自分がこの世界で生きる術のひとつ 他者に話すことが療法的には正解だろうが主治医ももういないし