Technique-600THz

前夜すべて

年の瀬だから掃除をする

31日にまとめて大掃除なんて出来る気がしないので、ここのところ毎日一箇所ずつぴかぴかに掃除している。

 

トイレに神様がいるので綺麗にしましょうとか、まじで現金な態度だな、と思っていた。トイレにいるなら全部にいるだろ。典型的な説話の形式で、衛生観念を持たせるためのなのかもしれない。

 

 

雑誌の解体ってほんとに汗かくし何をこんなに私は必死に…?と思ってしまう。すべてはこれから来る雑誌ラッシュに備えてのこと。いやそんなことはわかっているけどじゃあなんでのちに9割捨てることになる雑誌を買うん?という虚無感は拭えない。でも電子書籍でインタビューとか読みたくないし〜やっぱり物質が家に存在してるということが私の精神に発破をかけるんだし〜〜、、、、

 

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発見として、テレビガイドはめちゃくちゃ背表紙の糊が固くてドライヤーでは難しい、というのはあった。

 

 

先日のことなのでいいかと思って文章化する。(公録とかではなかったと思うので、事実確認不可になっているんですが単に後から文句垂れてるだけ)ゴミ箱に捨てたかった。

トークイベントで、学科時代の教員(授業を数回受けたことがある程度なのだけど)がある問題について死ぬほど軽率なやり方で触れていて引いた。

社会に起こる事象を安全な場所から見下ろして(そして学者という立場を引っ提げて)、十分に検討せずに歴史的な結び目として評価する語りがどれくらい危ういことか。何も変わっていないのに、さも変化が訪れたかのように語るその口ぶりに、シンプルにびっくりしてしまった。何を見ているんだろうこの人は。変化はあったかもしれないが、それは本質的な部分においてではない。本質的な変化などなかったのだ、と虚しさと憤りを感じている人間としてはかなり堪えた。(あと、100歩譲って、その場で語られた変化が本質的でない部分での変化だとしても、その変化はブレイクスルーとして語るには歪な形で起こっていると思うのだけど)

しかも公の場で、およそその場にいる人よりも権威のある(と、誰もが思うだろうね)人間が発言すること、その影響についてあまりに無自覚だったように思う。軽く触れただけだからいいのか?軽く触れてよかったのか?

非当事者から語られる物語の問題が、かの専門領域ではどう扱われてきたのか?

目の前の事象に飛びついて学問で培われたモノの見方を忘れてしまうということではない。むしろその見方をインストールすることで、(無意識的に)目の前の事象を自分が軽率に扱うに足るものだと判断してしまうということ。その危うさ。一方、人は生きているだけであらゆる事象に無関係ではいられない、ともいわれる。学問は個人におけるその関係を、一定の仕方で強固に結ぶツールである気がする。

自戒も込めつつ。