Technique-600THz

前夜すべて

9.25

研究がやや進みかねている(始まったばかりだから)のと、季節が急激に進み出したのと、というこの対位された状況

でもめちゃくちゃ勉強しました、今日も

 

ある点において、人のことを信用しないままでいるようにしている。期待しないということに近いか。ちょっと本当にこの人のこと尊敬できないな、と思ってしまうことがとてつもなく多い。たいていの場合は不誠実さに端を発する。(あとSNSって簡単に不誠実な状況を作り出してしまうのでそういう意味でももうあまり見ないようにしている。書いてることと私と対峙しているときに言っていることが違うよ、とか、そこに書いていないこと=無関心無言として認識されちゃって困るよ、というような齟齬が気持ち悪いので)けれどもそんなことをしていたら本当に山とか海の中とかで暮らさなきゃいけなくなってしまうし、自分が掴みたいものがその道中を経なければ得られないので、策を講じたのだった。

できるだけ笑って生きていたいので。なぜなら他人の為に死なないでいるわけではないのだから。

 

ほぼ水平に差す夕日が木々を潜って遠く向こうの木々を照らしていた。青々とした輪郭が黄金色に染まる。紅葉して秋の色になったのかと思いきや、まだ夏の色のままだったのかもしれない。いや、この種類の木に限っては既に秋の色なのか。

道の向こうに見えるコンビニはセブンイレブンだったが、この間まではミニストップじゃなかったか。しばらく通らないうちに変わってしまったのか。それとも元々セブンイレブンだったのか。

自分はまだ何も知らない、世にある事をなにも知らない

 

少し涼しいので、たくさんあるいて夕方になって茶でもしばきながら外を眺める日がほしい

 

アカデミア出身ぽい美術の話をするVtuberが大手プロダクションからデビューしたらしく、さーっと見た。関連タグを見ているとなんかちょっとおもしろい現象が起きている

 

9時間寝ちゃいました、という報告で大袈裟に息をつくくらいには人のことを心配している。決して簡単ではない道のりで培ったであろうものを限りなく他人のために削って明け渡している人間を、どうして手放しで見ていられるだろうか。まあ見ているしかできない。ので、あちらもそれすら見越して報告してくれるんだろうが。これがポーズだろうが物語だろうが、メディアや資本主義的システムを通して関係を構築することの、倫理的、物理的、精神的な妥協点というものがあり、それを頭の片隅ではわかっているので自分はそれを選択している。妥協点とはどこかに存在しうるし、でなければ確実に利己的でない関係の構築といった理想に浸って生きるしかない。そういう関係を(あたかも無意識のうちに、しかし意識的に)選択してしまっているので、他人様にとやかく言われてもまあハイそうですね、としか言えないのだ。

ところで、顔の見えない他人とのコミュニケーションはアンバランスであり、暴力的とも言え、それについて倫理的に取り沙汰されやすい。公的(社会的)な関係構築におけるこの一種の毒性に対して、人はよくも悪くも敏感である。敏感に見えるのは錯覚かもしれないが(質的に見える反応が量的な要因によって引き起こされることはある)。

一方、私的な(ドメスティックな)関係構築には程度の似たような毒性が既にあるのだがスルーされがちであるように思える。もしくは、適度なガス抜きによって矮小化されてしまう。私的な関係は人間関係の基本/極北/例外(!)として扱われ、倫理的な判断は各人のゲームによってまちまちの展開を見せる(司法的判断というのは司法に触れた際にしか発動しない)。

この2つの毒性を分けて考えるべきか、どこか根本が近しいところにあると考えるべきか。倫理的判断の基本は道徳と合理性な気がしているが、これは社会的なものに影響されるので、ゴールポストが永遠に動かされる感じがある。

 

また、あと1ヶ月は誰とも会いたくないなと思い始めた。