Technique-600THz

前夜すべて

2.5

雪らしい雪!冬!ありがたい

 

べっちゃべちゃの雪だな〜〜と思いながら家に帰った。というか本当は今日出かけたくなかった。寒いし。他のことをやる方が捗りそうだった。けれど自分で決めたことくらいはなんとかしたかったので脳のスイッチをオフにして淡々と外へ向かった。

 

空間を雪で識ることができる。あちらの窓とこちらの窓のどちらにも雪が舞っている。降る雪が建物を覆うことによって、あの窓やこの窓の向こうが、観る瞬間に都度出現する平面ではなく、ひと続きの空間なのだということを実感する。雨でも同じではないかという気もするが、雪は雨よりも存在が物理的明白な上に、その落ちる速度の緩やかなことが、こういう意識を生むんだろうか。

 

普段雪の降らない地域の人には、自分の家の前を雪かきするという習慣はあるのだろうか?家の前を掃除することは、通行人を含む隣人との関係を構築することだと昔聞いたことがある。

 

ブーツよりも重さに足を取られず靴裏がしっかりしているスニーカーの方がある程度楽だが、靴下の境目から雪が侵入してくるのもつらいし、、と迷ったり(もっともブーツなんて手元に無いのですが)。

 

雨の日に仕事が捗るように、雪の日も捗る。雪は音を消す、というのはよく言われているが、冬は殊更に遠くの音が聞こえる(物理的に)ということもあるし…

 

大雪が降ると、犯罪もの/探偵ものにおける密室、クローズドサークルの分類を思い出す。鍵のかかった部屋、絶海の孤島、吹雪の山荘、列車、客船、大勢の観衆…………。吹雪の山荘ものの不気味さは一体何のために掻き立てられるのか?ホラーでも吹雪の山荘は引っ張りだこだし。雪が音を消すように、犯人の忍び寄る影もまた見えなくなるというスリルと情緒のせい?個人的に吹雪の山荘といえばアガサ・クリスティの『ねずみとり』。時代背景を汲むと面白いし、原文で読むと単語単位での演出が細かくてびっくりする。

 

 

小松菜のナムルを作った。鉄分のサプリを変えた。

2.3

魚が好きすぎるので当然恵方巻を買って食べた。起きた瞬間から恵方巻を手に入れる算段をつけていた。直近のTarzanも魚特集らしいし、魚が生活を囲ってきている。

 

 

攻殻機動隊SACの総集編を観た。一応独特の風合いがあるのだけど、ある種のアニメにある風合いではあり、これはどの象徴作用によるものかを考えてもよさそう。SFものにおいて、世界構築の論理が社会精神や知覚の礎となることは重要なポイントで、それが物語的に細かに機能している作品だなと思う。あと構図がいい。生身の体と機械の体が混在する世界の描写は数々あるが、この作品には独特の仕方があって、そこが印象的だった。

あと音楽が割と好きだなと思ったら菅野作品だった。そうか〜〜〜。実写だったらおかしいけど風合いによく合っている。

 

 

心の中に生き続ける、とはどういうことか。使い古された台詞としてではなく、実感としてそれを知っている人間がどれだけいるか。

 

 

カラオケにめちゃくちゃ行きたい。いや行かなくてもいいからとりあえず歌を歌う生活をずっとしていたい。人と歌うのも楽しいはずだし。

1.31

だんだん気温が春めいてきているが、早くないか?夜でも上着がいらないのではと思える日がちらほらあり、服屋の店頭からはニットが消え始めている。

 

 

一ヶ月前のことを思うと遠い昔、半年前のことのように思える。案外今月は長かったのかもしれない。なんとなく日々何をやっているのかの自覚がないまま過ごしてきてしまった。目の前の物事だけに集中した方がいいこともあるけれど、長期的にそのようにずっとやっていってしまうと自分の場合は暗澹としてしまう。日々の積み重ね、その実感が薄いと余計そうなりがちな気がする。

 

 

観測対象の1人が作曲を始めたばかりで、その行程をブログで詳らかにしていた。めちゃくちゃ忙しくて時間が殆どないのにメンバーに何度も聴いてもらって何度も修正して…(しかも2曲やろうとしてた)という話で、しまいに出て来たのが、やっぱり曲を作るのが好き、という言葉だったので感嘆した。メンバー内に音楽が抜きん出て出来て、作曲をやるとなれば普通はそちらという人間が他にいるにも関わらず、彼が曲を作る理由を知りたいと思っていた。また、毎回そのメンバーと共同作業で曲を仕上げていると知って、なんて良い関係なんだろうと勝手に思ったりした。あと流石ライブ昼夜終わりにフットサル行くような人間、バイタリティが人の数倍上を行っている(ツアー終わりリハ進行しながら2週間で曲作るのは初心者の仕業ではないのよ)

 

 

こんな世界、こんな空間、こんな関係じゃやってられないと思うときも、そんな事にいちいち打ちのめされている暇なんてないだろと思うときも、あるかもわからない可能性に浅ましく(そして認め難くも)期待しているということは変わらない。

 

 

接骨院にまた行き始めた。良い枕を買った。この調子では机の上の仕事に就くことなんてできないんじゃないかと思う。

 

 

無い(有る)夢の話をしたらまだ全然間に合うと思うけど、と言われて、この人もそれ言うんだなと思った。

 

 

研究が少しだけ進んだし、教授と中身のある相談ができてよかった。

 

 

Q:行き詰まった時は〜〜〜??

A:まず一曲写譜をしろ!!!!!!!!写譜一択!!!!!

↑これ、構造を理解する助けという以上に、自分の手が導く音の限界を他人の手の動きをなぞることで突破する、いわば運動神経由来の同一化と逸脱のメソッドなのかもしれない。

 

 

おそらく実社会において仕事/研究の経験が豊富なオタクのプレゼン資料を見るのが好きだ。仕事で培った技能を惜しみなく使い、自分の自己満足に端を発した一銭にもならないことをしている。シンプルに質がよくて面白い。

 

 

自分の場合、一週間のスケジュールの把握ができていないことはひとつの疲弊のサインであるので、そろそろやべ〜〜〜となったら少し休憩を取ることにしている。

 

 

不甲斐なくて情けない瞬間の自分が嫌い。一緒に物事をこなす仲間がいない状況が悲しい。とか、感情らしい感情のことを思ったりする一ヶ月でした。しっかりやりましょうね。自分のことは結局自分でしか救ってあげられないので。

 

 

約半年連載された同人作品の最終話が更新された。厚い記述と風合いのある文体と、全体を貫くテーマとそれに生る部分との関係がしっかり味のする作品だった。本職でないという性質上、完結する作品が少ないため、完結まで筆が運ばれるのを(しかもリアルタイムで)目撃できることは貴重。ありがたいことだなと思う。

1.26

バイトの終わりに同僚と月明かりの下、帰り路を歩く。最近はずっとそう。言葉にしなくてもなんとなく共有される固定化しかかった時間というものを久しぶりに感じた。

 

 

観測対象の人間がドラマ出演につき、雑誌のインタビューが山のように存在していて食傷気味。一度に何誌かまとめてインタビューするせいで内容が重複することがあり、それを読んであーーーこれねハイハイもう読みましたよ、という気持ちになる。この重複を回避するため軽く立ち読みチェックしてしまうのを許してほしい。やっと少し時期がずれたものが出てきて、今日はそれを読んだ。少し前から滲んでいたように思う、本人には珍しい(ように観察の現段階では思われる)朧げな自己意識と未消化な状況がついに明確に言葉にされていて、おや、と思った。

1.20

感情を持つ前に体を動かす、をやる局面の判断がまずできるかどうか…あらゆる仕事をこなし本業をちゃんとやること

 

 

最近朝が明るくなってきて参ってきた。まだ暗くあってほしい。暗い間に作業したいので4時起きとかしなきゃいけなくなるから。

 

 

クリミナルマインドしかり、なんらかの海外ドラマを流していると一定の質感の時間が部屋を支配し、そのお陰で注意が散漫にならずやるべきことに集中できる。

1.16

人と回転寿司に行ったが、開口一番自分以外の人間が同じネタをふた皿ずつ頼んでいて、カルチャーショックを受けた。自分は回転寿司だろうがカウンターの寿司だろうが1種類ずつ頼む。もう一度同じネタを頼むことはあるけど、はなから2皿ずつ頼むことはない。もしかして今までの自分の食べ方は少数派だったりするのか…?と思ったのだけど、どうですか?

 

 

弊学科の奨学金は、その所以を辿れば夭折された方とその周囲の方々の志があり、軽々しい気持ちでは使えない、と思っている。もちろん研究制作にどんどん使った方がいいのだが、私個人として、生半可な気持ちで受け取りたくはない。何かものを受け取るときに、そこに乗っかっているものの重みをちゃんと感じて、その重みごと受け取りたいと思う。だから、中途半端なことはしたくない。

 

 

人を怒るとか、人に説教垂れるとか、相手に棘をしれっと差し向けるとか、そういうことに向いているのだけど、ある意味向いていないので、やりたくない。ある種の人は簡単にドミノ倒しのように人を破滅まで追い込むことができてしまうということを、一体どれくらいの人間が身をもって知っているだろうか。簡単に人が破滅するのではなく、簡単に破滅に追い込める能のある人がいる、ということ。

うまく怒りを伝える、もしくは、怒りでなく道理を突きつけるにはどうすればいいか。そんなことはしなくていいのか?

 

 

 

1.15

ゼミが早めに終わったので『レザボア・ドッグス』を観た。ゼミがあって例によって昼食を抜いているため、お腹がほんとうに空きすぎてチーズホットドッグでも注文しようかとも思ったけど踏みとどまりポテトにした。こんな空腹のときにポップコーンを食べると具合悪くなりそうだったので、食事に近いものを食べようという頭はあったけれど、ポテトくらいしか選択肢がなかった。

ハーヴェイ・カイテルの眼と息遣いがよかった。画面の外からするとぱっと見辻褄が合わない描写や展開や台詞というのはどんな作品にも見られること。しかしそれは作中のリアリティであってこちらの現実の物差しを持ち出すのは違うのだ、という折り合いを自動的につけることになる。でも今回は、というかカイテルの演技は、その折り合いをつける暇すらも置き去りにしてその場にある現実をこちらに見せてくる。突きつける、というよりは、彼がいるその瞬間から既に彼の演じる事柄がこちらに確実にやって来る、という印象だった。し、零れる息のその次の台詞、覚束ない手のその次の行き場を固唾を呑んでずっと待ち望む、という感じの、あまり映画ではしたことのない経験をした。

 

 

 

某過去ブログの今日と同じくらいの日付のものを何の気なしに見ると、「寒いのは気のせいだ。犬を抱け!」と言っていた。犬はいいよね。

 

 

負ける気も勝つ気もなくて、ただ自分がまだやれることがあるんだとしたらやってみる他ないし、自分の気持ちに都度素直になっておくことは大事だとか某人間が言っていたので、そこだけ明らかにした後であとは手を動かすだけなんだよな、と思うようにした

 

 

ヨガ、初期位置?ポーズ?が既に画面の中の人と違くて難しーーーといつも思う。鏡の前でやりたい