Technique-600THz

前夜すべて

8.16

カーターの弦楽四重奏曲を通しで2曲聴く。第一番の剥き出しの木目というべきか、素材とその組み合わせが多少ガタついてもそこら中に氾濫する様子。流れてゆくために基準になる拍が強く見えていて、機械仕掛けのようにも感じる。第二番は繊細な強弱、アクセントの集合。はっきりと分かれた性格の声部が並列するとカーターも分析家も言うが、こちらの方がかえってまとまりがあるように聴こえるのはなぜか。小波があらゆる瞬間に現れるが、それが比較的大きな一波を形成する瞬間もたくさんある。それにしても、抒情性がある旋律(と言うほかない)の数々、どうやって生み出しているのか。

 

思い出したので、昨年の横山博リサイタルのパンフレットを読む。沈黙についての論考が載っている。無は有の不在ではない。無と有の間には断絶がある、というようなことも記載されている。そもそも、無ということをどうやって人は感じるのか? 存在の無さを感じることはあるけれど、それは無ではないのか。無が有るということとはなにか。

 

ミーティングをする。誕生日の歌をグループ電話で歌う。誰に合わせるか、自分が先導するか。引き伸ばされた人の声。